(正式 天照大日瑠女命) 相殿の神様 国常立尊 伊弉諾尊 月 読 尊 誉田別尊
開運厄除 身体健康 子供守護 子宝安産 厄災消除 子孫繁栄 交通安全 家庭円満 五穀豊穣 商売繁盛 良縁成就 国土平安
※当社主祭神「天照皇大神」様には複数の御神名があり、正式に伝承されている御神名は天照大日瑠女命とされています。
当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の創祀と伝えられている。社地は当初現在の津山市小田中の地にあったが、天文8年(1539)火災に遭い社殿 宝物等悉く焼失した。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国守大名として入封した森忠政公(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、翌9年(1604)現在地に移して津山城下の総鎮守とした。 現在の社殿は寛文4年(1664)2代藩主森長継公が改築したもので明治5年に県社に列せられ、その後昭和31年に県指定の重要文化財に指定された。 氏子は津山市の中心部56町内にわたり作州第1の大社である。例祭(秋祭)のお神輿ご巡幸は、供奉300人を越え全長500メートルの行列になる。またこの神輿は縦横1,7メートル高さ8メートルでその重さは約1トンにも及ぶために交代要員も含め、担ぎ手は170人を必要とし、その規模の大きさから日本三大神輿の1つといわれている。 「徳守」の社号は勅使として参向した清閑寺大納言藤原徳守の名に因むといわれるが定かではない。 境内末社の善神社(祭神 お花善神)は、津山藩森家の家老原十兵衛に仕えた美女お花が横死し、その霊を慰めるために祀られた社で婦人の守り神として知られ、特に逆境にある女性に霊験あらたかである。 境内に赤穂47士の1人神崎与五郎則休の歌碑「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」があるが、神崎与五郎はもと津山藩士であり徳守神社を深く信仰していた事が伺い知れる。
本殿は正面三間 側面三間の中山造り(入母屋造り、妻入型式)で、正面に唐破風の向拝をつけている。 そして、軒回りには見事な彫刻の装飾がなされており、幣殿(釣殿)拝殿も同時期の建物として現存していることなどから、近世初期の優れた神社建築として昭和三十一年に県の重要文化財として指定される。 尚、現在の本殿が造営された当時の姿は、色鮮やかな極彩色であり、現在では一部の塗料が 残るのみであるが、本殿内部には鮮やかな花の天井絵が現存し、また幣殿の床は、元は一面が黒漆喰であった。
津山藩主森忠政公は大阪夏の陣において、激しい銃撃戦で多くの死傷者を出したため、徳川家康より鉄盾十張を拝領し、津山に帰還した折に当社へ奉納した。 激しい銃撃の痕を残すこの鉄盾は、江戸時代前期に鉄製の盾が使われていた証であり、当時の火縄銃の威力を伝える歴史的価値の高いものである。 平成28年、津山城完成四百年を記念し、レプリカが奉納された。
こちらのボタンを押すと詳細が開きます。
【ご利益】開運厄除 武道守護(スポーツ)
神社史考察 御本殿と住吉神社の関係 住吉神社は伝えによれば天文8年徳守神社社殿焼失の際唯一再建された建物です。その後森忠正公が慶長9年津山城下の総鎮守として、現在の地に社殿を造営しました。その時この地に移築されたと伝えられています。 しかしながらこの本殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期に遡ることができ、徳守神社本殿建立と同時期ということになります。この建物の形式は正面一間、側面一間の妻入りで一間の向拝を持ち、正面を入母屋造、背面を切妻造とし、前方に屁をつけた津山市内では最も普遍的な建造物であり、「木偶入春日造」と呼ばれています。現在同じ建築様式で現存している建物としては、八出天満宮本殿(寛永14年1637)や、千代稲荷神社本殿(天保3年1683)【いずれも市指定文化財】(『津山の社寺建築』津山市教育委員会発行)がありますが、これらと比較しても各所に古式をとどめており、数十年は先行するといわれています。 残念ながらこれを証明する資料としての創建札はなく、御屋根修理時のものとして一番古いもので延享4年(1774)あとは近年の大正3年・昭和33年のものが残っているだけなのです。 では、この建物が元徳守神社本殿であったと仮定すれば、森忠政公が慶長9年(1604)に建立した本殿ということになります。現徳守神社本殿は寛文4年(1664)二代目藩主長継公によるものであり、元本殿を住吉神社として現在の地に移築したと考えられるのです。 大正元年編集された『徳守神社誌』にも、 「元禄の頃に記されたとされる境内神社の順位は7番目に記されている神社であり、建物の規模からいっても他の境内神社と比較しても飛びぬけています。元々境内社として建立されたものではないのではないか」 との疑問を投げかけています。 いずれにしても、住吉神社本殿の創建時期は17世紀初期と推定されており、古い建造物としてその文化的価値は高いと思われます。
商売繁盛や幸運の神様で、特に恵毘須神社は商売繁盛と漁業の大漁で全国の沿岸部で広く信仰されますが、内陸には珍しく当社の境内にも鎮座しております。寿福幸神社は大正4年に南新座町内から遷されました。
元は渓花院というお寺にあり、嘉永3年(1850)に当社に遷されました。宮脇町内で善神社に合わせてお祭りも行われ、多くの方々が参拝されています。明治32年に千歳稲荷、平成31年に堺町根田稲荷が合祀されています。
厄災除けの神さま、八幡信仰で全国に分布している武運神さま、荒御魂をお祀りする荒神社の三社です。
ともに武神とされる神社で武士の守り神として祀られてきました。
薬祖神社は医療の神様と親しまれ、秋葉神社は火伏せの神様として広く信仰されています。
神話で初めて結婚された神様で当社の主祭神「天照皇大神」の親神様であります、伊邪那岐命・伊邪那美命をお祀りしている神社です。
文字通り疫病や災害を運ぶ禍津日神(まがつひのかみ)等の侵入を塞ぐ境界守護の神様です。大正4年に南新座町内から遷されました。
出雲大社で知られる大国主命をお祀りしている神社です。
子供の成長と健康を見守る子供の守り神です。
【ご利益】婦人守護 縁結び
お花の宮は、正式には「お花善神」です。むかし、勝間田(今の勝央町)にお花という美しい娘があり、津山藩森家の重臣原十兵衛の屋敷に行儀見習いの奉公にあがりました。 利発で性格がよく、十兵衛に信頼され寵愛されて赤ちゃんのお守りを命ぜられていましたが、ある時、ふと目を離した隙に赤児が縁から落ち、踏み石に頭をうって死んでしまいました。 お花の過失はどうしようもなく不運を嘆き悲しんだのですが、愛児を失った奥方の怒りは激しくお花を責めに責めて、とうとうなぶり殺してしまいました。 ところがお花の怨霊が夜な夜な屋敷にあらわれて怪異が起こり、奥方は死霊にとりつかれて狂死し、十兵衛はお花の霊を慰めるために祠を建てて神として祀りました。それから祟りはなくなったといいます。 今の大手町あたりですがのち大円寺に移され、現在、徳守神社の境内に末社として祭られ、神となったお花善神は女性の守り神、女性に良き縁を運び、特に逆境にある婦人に霊験あらたかです。 家庭内に悩みを持つ人、良縁の恵みを願う人、善神社にお参りしてご加護を受けられてはいかがでしょう。
祭礼日 夏祭り 7月24日 秋祭り10月24日 地元宮脇町の人々は町内の守り神として祭祀を続けています。
現在の神輿は2代目であり初代神輿は、寛文4年(1664)黒塗の神輿として新調され、明和2年(1765)に修理された記録が残っていますが現存していません。 現神輿は文化6年(1809)岡崎屋伊兵衛らの発起により、氏子の総力を結集して金塗神輿が新調され、その後明治31年(1898)に修理がなされ現在に至っています。 この神輿の大きさは本体部分たてよこそれぞれ1,7m、屋根部分たてよこそれぞれ2,1m、総高2,8m 重さは約1tといわれており、近隣に類例のない大きさを有していいます。その大きさと美麗さから日本三大神輿のひとつといわれていますが根拠は不明です。 当社秋祭りの神輿ご巡幸では、交代要員を含め担ぎ手の総勢が170名程必要とされ、極めて大型の神輿であることが伺えます。 例祭(10月第4日曜日)では、神輿ご巡幸に供奉を加えて行列の長さが500メートルにも及ぶ時代絵巻が繰り広げられます。このように長年市民に親しまれている行事であり、津山の誇れる文化遺産として評価され、平成10年8月4日に津山市教育委員会より有形民俗文化財の指定を受けました。
現在の神輿は二代目であり、初代神輿は神社殿が完成した寛文4年(1664年)黒塗りの神輿として木知ヶ原町(堺町)の氏子が奉納し、神輿のご神幸が始まった。森家二代目藩主長継の内意で、城下西郊の小田中村神田西松原南に十間四方(18メートル四方)の御旅所を設け、町内を巡った神輿が御旅所まで行き、引き返すようになり、現在も御旅所は確保されています。
現在の神輿は、文化6年(1809年)岡崎屋伊兵衛らの発起により氏子の力を結集して文化8年(1811年)金塗神輿が新調され、明治31年(1898年)に一度修理されています。 平成23年(2011年)は、113年ぶりに平成の大修理、また、担ぎ出されて200年となる記念すべき年であり、平成7年以来となる本来あるべき姿の23日が祭礼日となる素晴らしい年となりました。
調査:後藤荘六氏
本来は獅子練りと大神輿は一体であるとして、現在の津山市小田中の神田(しんでん)地区の人々によって奉仕する習わしがありました。しかし、戦後間もなく神田地区の人々だけでは大神輿と獅子練りを奉仕する人員を集める事が難しくなり、與丁組織が結成されると大神輿の担ぎ手は與丁に委ねられました。 それでもこの獅子練りは古き伝統と「露払い」の意志を受け継いで、現在でも神田地区の人々によって奉仕され続けています。
この獅子練りは常に大神輿と共に、発與(神輿が神社から出る事)から還御(神輿が神社に帰る事)まで露払いとして大神輿の前を練り進みます。また、始めの発與には出立ちの獅子練りを、各御旅所や還御の折に大神輿が祭典のために輿を据える時に、神迎えの獅子練りを行います。大神輿と赤と黒一対の獅子が笛と太鼓に合わせ一体となって練る勇壮な姿は大変迫力があり、集まった多くの人々を釘付けにします。 また、道中においては無病息災を願い、この獅子に頭を噛んでもらう事も、醍醐味の一つと言えるでしょう。
元旦に今年一年の皆様のお幸せをお祈りする祭典です。年が明けた喜びと感謝とともに、皆さまの新たなる一年のご幸福を祈念します。
これより三が日は特別な日です。どうぞ年初めの日の恵みを頂き、心晴れやかに新年を歩まれて下さい。
歳旦祭終了後、小田中の神田地区の氏子「獅子組」の方々により、境内で獅子練が行われます。昼過ぎ頃まで参拝者や頭を噛んで、お子様方の健康や学業を、大人方へは諸難消除・無病息災を祈念致します。この獅子練りは、代々神田(しんでん)地域で継承してきた伝統のある獅子練です。
近年、環境等の問題を鑑み焼納を行わず、お預かりのみとさせていただいております。
~毎年1月14日の午前9時に忌火(神様の清浄な火)にて点火の神事を執り行い、正月飾りや書初めなどを炊き上げ、午後3時に鎮火致します。(午後2時までにお持ちください)
とんど焼きは、ただ注連飾り等を焼く行事ではなく、元旦から家に宿られた年神さまをお見送りする、神送りの神事なのです。それゆえ、とんどの火や煙や灰には年神さまのご利益が宿っているのです。
注意1、だいだい(みかん)や餅はお飾りから外し、縁起物なので火の中にいれずに持ち帰りましょう。
注意2、終了後はお飾り等を地面に置かずに持ち帰って焼いて頂くか、納札所に納めてください。また、だいだい(みかん)や餅は必ず持ち帰ってください。
本来節分というのは、立春・立夏・立秋・立冬の前日の日のことなのですが、昔から立春から一年が始まるという考えられており、節分というと主に春の節分を指すようになりました。節分祭とは四季が巡り年の始めの春を迎えるにあたり、その一年が平穏無事な年であるようにと願うお祭です。
そして立春から新しい年が始まるということは、立春から恵方・凶方位などが動き厄年に当たる方々の厄が始まる日でもあります。厄年の当たる方は立春より始まり節分を迎えるまでのこの一年が厄年となるのです。
当社では、午後3時に一年の無病息災と開運を願う方々にご参列頂いて開運厄除祈願祭を執り行っております。普段の厄除け祈願とは違い、ご参列頂いた方々に祈願祭修了後、特設舞台より厄落とし豆撒きもして頂きますので、是非お受け頂ければと思っております。詳しくはこちらでもご案内しております。
節分といえば豆まきですね。「鬼は外」「福は内」と言いながら、厄除けと福招きの行事が昔からされてきました。当社では金棒を持った「鬼」が氏子町内を巡りますので、鬼を見かけたら元気よく「鬼は外」といって豆を投げて退治してくださいね。その後お福さんの面をかぶった福娘が「家内安全 商売繁盛」と祈願しながら福鈴を振って、皆さんの家庭や会社に福をお授け致します。境内におきましても午後6時30分の節分祭後の追儺行事の後に豆まきを行います。
節分祈願祭 午後3時(受付当日2時半迄)
豆撒き 第一部 午後3時30分
節分祭及び追儺神事 午後6時30分
豆撒き 第二部 追儺神事修了後(午後7時前後)
詳しくはこちらを御覧ください。
2月~3月中お受付しております。
詳しくはこちらをご覧ください。
一年の実りを願うお祭りに併せ、崇敬会会員の皆さまをお招きして、一年の健康と金運、ご家庭の円満をお祈り致します。
行事案内はこちら
厳しい夏を無事平穏を過ごせるよう祈願する夏越祭と、持参頂いた人形を神前に備えお清めする夏越の祓えを併せて執り行います。
茅で作られた輪をくぐることによって半年の罪穢れを祓い無病息災を願う神事です。茅の輪が厄をはらうという言い伝えは、須佐男命(すさのおのみこと)が南海を巡られたとき、宿を貸してくれた 蘇民将来(そみんしょうらい) に感謝し、蘇民に『疫病が流行したら、茅輪を掛けるよう』に言い残し、後に疫病が流行り人々は倒れましたが、蘇民は言葉通りに茅輪を掛けると蘇民の家族だけは疫病にかかる事がなかったと伝えら、これが茅の輪神事の由来といわれております。
古くから日本には人形に自分の罪穢れ息を吹き込み、それを川に流したり焼納する風習があります。
人形(ひとがた)に自分の心の汚れや厄災を人形に移し、さらにその人形を浄化することにより今まで背負ってきた穢れ(けがれ)を洗い流すことで心が軽くなり健康も保たれるという古い神事です。
大神輿と共に詳しくご紹介しておりますので、こちらをご覧ください。
新しく嘗(な)めると書くように、今年採れた新米をお供えし、神様のご加護に感謝する祭典です。
主に11月中随時お受付しております。詳しくはこちらをご覧ください。
近年、環境等の問題を鑑み焼納を行わず、お預かりのみとさせていただいております。
その年の御札御守りは年末にお返しし、年を越して新しく受けることが大切です。一年以上経過した御札御守りは必ずお返し下さい。
除夜祭は年末大晦日の夜に行われる年越しの祭典です。除夜とは師走の呼び名はご周知の通りですが、12月の呼び方の中に除月という呼び方があり、また大晦日を除日とも呼びます。この除月の除日の夜に行われることから、除夜祭と名がついたといわれています。この祭典は今年一年無事に過ごせた感謝と、清い心で新しい年へと移り行けるようにと祈念を込めた祭典です。